多数派 と マイノリティ
社会の多数派に属し続けること とは 如何なることだろうか 相応の価値観の共有か アンテナの感度を人並みのレベルに下げておくことか
しかし、多数派に属し続けるために 沢山のことを断念し 様々な想いを暗い穴の中に閉じ込めておかなくてはならないかもしれない
アンテナの感度が産まれもって鋭敏な場合 現代社会において多数派として生きてゆくことが 非常に困難となる ことは容易に想像できることだろう
そして、そのような彼等の精神が ある閾値を超えてしまったとき に 異常者として マイノリティ というスティグマが付与され その気があるナラば 戻ってこい と まるで社会が二層に分かれているかのように 別の階層への隔離がなされる 「社会復帰」という目標を設定されて
最近、精神科医の中井久夫著「世に棲む患者」を読んでいるのですが その中にこんな一節がある
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統合失調症圏の病を経過した人の社会復帰は、一般に、社会の多数者の生き方の軌道に、彼らを”戻そう”とする試みである、と思い込まれているのではないだろうか。
しかし、復帰という用語がすでに問題である。彼らはすでにそのような軌道に乗っていて、そこから脱落したのではない。より広い社会はもとより、家庭の中ですら、安全を保障された座を占めていたのでは、しばしば、ない。
はじめての社会加入の過程にあって、そこでつまずいた場合が多くても当然だろう。
これは、言うまでもないことことのように思える。しかし、私の言いたいのは、多数者の途に―復帰するのでなく―加入することが、たとえ可能だとしても、それが唯一の途ではないだろうということである。また、敢えていえば、つねに最善の途だろうか。 中略 考えてみれば、統合失調症を経過した人は、事実において、しばしばすでに社会のマイノリティである。そのように考えるとすれば、マイノリティとして生きる道を積極的にさぐりもとめるところに一つの活路があるのではあるまいか。
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